ある時このS君が久しぶりに訪ねて来る機会があったので、教養学部の改革にともなって作られたという 新しい英語教科書を持って来てもらいました。前書きに、「(初版は)意外にも学外に多くの読者を得るという幸運に恵まれた」 と書かれてあるように、大学英語教育にとって画期的な試みとして大評判を得た教科書 (The Universe of English 東京大学出版会) です。

予想通り大変充実した内容で感銘を受けたのですが、無造作に何枚ものテスト用紙が挟まったS君の教科書の余白や行間に、大急ぎで調べたらしい 単語の意味が書き込まれているのが気になりました。そこで試しに、目に付いた単語を幾つかテストしてみると、 案の定だいぶ意味を忘れていることがわかりました。 S君は、時間があるときは入学祝にもらった語源辞典も使ったが、 余裕がない時のほうが多かった、試験をクリアする程度なら何とかなったけど、やっぱり丸暗記式に覚えただけでは時間がたつと忘れるんですね、と 改めて感じたようでした。

このような単語の中には、 最初に学ぶ時に語源を理解していれば、確実に記憶できたはずなのにと思えるものが いくつもありました。 その中から、この「見本版」にも掲載されている autonomous を選んで、この単語の nomous の部分は astronomernomer と重なると 説明 したところ、「なるほどね!」と身を乗り出してきました。そこでさらに 「見本版」を使って 、 autonomy を起点にして語源のつながりで結ばれる単語を 紹介しました。

   autonomy → autopsy 
   autopsy → biopsy
 *okw- 表4>4
   biopsy → ambhibian  *gwei- 表4>12
   ambhibian → ambhitheater  *ambhi- 表3>3

S君は、受験時代さながらに「あっ、そうなの!」を連発し、私たちの企画にも 大いに共鳴してくれました。(「見本版」の規模があまりにも小さいのには、かなりがっかりしたようでしたが。)

ところで、 autonomous が出てくるのは次のような箇所です。

S君の教科書を見直すと、「辞書と首っ引きにならずとも一人で読めるよう」にとの配慮から付けられた "self-reliant; independent; free" と いう註が付いていて、自分でも、「独立自立している」という書き込みをしています。「歯ブラシの考古学」という目を引くタイトルの文章は 内容もとても面白いので、テストまでは autonomous の意味を文脈に「乗って」覚えていたのでしょう。しかし、「自分で」と「法律」という この語の語源的な意味も理解していたら、記憶はもっと長続きしていたのではないかと思います。

この教科書の編集者は、「文脈が見えれば、知らない単語の意味も案外見当が付いたりするものだし、そういう『乗った』わかり方の方がほうが記憶にも 残る(序文)」と述べています。果してそうでしょうか。私たちは母語でさえ、文脈から推測するやり方だけで 覚えているのではありません。漢字熟語を語源分解しないで覚えようとする人もいないでしょう。自分の推測に確信をもてなかった時には、辞書で 調べたり、身近な人に尋ねたりして、膨大な時間を費やしながら何とか日本語をものにしてきたのです。

とはいえ、丁寧な語彙指導までする時間が学校にないのは事実だと思います。S君の訪問は私たちに、「言葉の記憶」に焦点を合わ せた便利な独習用教材が必要だと改めて感じさせた出来事でした。