数々の辞典から恩恵を受けていることに日々感謝の念を新たにしている私たちですが、それでもなお、 これまでには無い、新しい別の方式の辞典が欲しいと思うようになりました。それは短く言うと、

  語源と用例によって、単語の意味を確実に覚えられる辞典

です。言葉の意味を「根っこ」から解説し、同時に、その言葉がどのように使われるかの実例をいくつも示してくれる 「頼もしい先生」のような辞典があること、それが語彙習得のカギになると考えるからです。

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語源の知識が重要であることは、今日では広く認められています。英語学習者のための新聞や雑誌にも、語彙を増やすためには語源の理解が有効であるという講義が 繰り返し掲載されます。多くの英和辞典が主要語に語源情報を付けるようになり、学習者用の語源辞典も出版されています。しかし、個々の単語について、 その都度語源情報を得るというやり方だけでは、せっかくの知識を語彙の増強に役立てにくいのです。

例えば、 Mediterranean という語は、ラテン語 medius (中間の) と terra (土, 土地) から成り立っている語です。 日本語の訳語も「地中海」ですから、語源も意味も容易に納得できます。しかし、少し時間がたってから、「地中海を英語で言うと?」 と聞かれて答えられるかというと、多くの人は自信を持てないのではないでしょうか。

それでは、最初に Mediterranean の語源を教えられた時に、 Medi- の部分は、 medium (中間) の medi- と同じで、 -terr- の部分は、 territory (領土) の terr- と同じなんだよ、と付け加えてもらったらどうでしょう。 medium territory は、「ミディアム」 「テリトリー」として 日本語にもなっていますから、たいていの人は意味を既に知っています。この二語を、「地の中」という Mediterranean の語源的意味を印象付けるために 利用するわけですが、こうすれば記憶がより確実になることは誰でも認めると思います。

ラテン語 medius (中間の) を語源とする英単語は他に、 median (中央値, 中央分離帯)、 medieval (中世の)、 mediocre (並みの) などがあり、 terra (土, 土地) を語源とする単語には、 terrestrial (地球の)、 inter (埋葬する)、 subterranean (地下の) など があります。どれも、「ミディアム」 や 「テリトリー」 と一緒に学んだほうが覚えやすい語です。

上記の例のように、語源のつながりで組織的に語彙を増やしていく方法を実践するためには、 語源が共通する語を常に相互に参照できるようになっている辞典 が欲しいと、 私たちは考えました。 つまり、アルファベット順の語源辞典ではなく、単語が語源別に分類されている辞典です。同じ考えを持つ人は多く、この種 の「単語帳」はたくさん出版されています。しかし残念なことに、それらは規模が小さいものが多く、基本語全般を網羅していません。 つまり、学習者は、 この種の辞典を何冊もそろえなければならず、かなりの数を用意しても足りないという不便な状況なのです。

ここで思い出されるのは、杉田玄白の 『蘭学事始』 に書かれた 西善三郎 という通詞のエピソードです。オランダ語を学びたいという玄白に対して、 この通詞は、そんな望みは持たないほうが良いと言ったのです。

善三郎が言うには、自分は通詞の家に生まれたので、幼いときから、「アーンテレッケン(aantrekken)」が「(酒などを)好む」という意味であること、 またこの語が、「(故郷を)思う」という時にも使われることを知っていた。しかし、五十歳になってから、「アーン」が「向こう」で、「テレッケン」が 「引く」だということを初めて知った。つまり、「アーンテレッケン」は「向こうのものを手前に引き寄せる」ことで、この語が、「酒を好む」という時にも、 「故郷を思う」という時にも使われるのは、向こうにあるものを引き寄せたいと思うからだと理解した。外国語を習得するとはこういうことを いうのであるが、これは朝夕オランダ人に接していてさえも難しい、江戸などにいては到底できないことである。玄白はこう忠告されたというのです。

通詞はこの時、言葉の意味にはわけがあり、そのわけを理解して言葉を覚えるべきだという「奥義」を明かしたわけです。言い換えれば、「語源理解による 単語記憶法」を説いたのですが、若き日の玄白は、もっともなことではあるが「そのごとく面倒なる事を為しとぐる気根はなし、徒に日月を費やすは無益なる 事と思ひ」、オランダ語を学ぶ意志を失ってしまいます。

語源を理解して言葉を覚えることの合理性は認めるが、それが「気根」のいる面倒なやりかたであるという状況は、玄白死後二百年近くたった今日でも続い ています。「語源理解による単語記憶法」は、原理的には、漢字や漢字熟語の覚え方と同じです。漢字や熟語を系統的組織的に覚えて、たくましく豊かな語彙 を形成してきた日本人は、優れた漢和辞典をたくさん作ってきました。それなのに、似たような構造を持つともいえる英語については、基本語を網羅した語源 別英単語辞典 を作ろうとしないのです。これは驚くべきことではないでしょうか。

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学習用辞典なら例文が豊富な辞典が望ましい、という一般論について反対する人はいないと思います。今では例文を重視する辞典も多くあり、これらを何冊か取り揃えれば、 かなりたくさんの量を読むことが出来ます。あれこれと複数の辞典を調べるのは手間がかかりますが、電子版があるなら、これらをパソコンのハードディスクに入れて自由に 検索できるようになりました。 しかし、電子版の元になっている紙の辞典に厳しい容量制限があるので、少し重要度の低い語や語義になると、例文まで載せる余裕はなくなります。辞典を使っている時に、 この語の例文が読みたいのに付いていなかったという失望を味わうのは、本当に残念なことです。

言葉の意味を、訳語や語義説明から知るだけでなく、実例から学びたいと願う人は多いと思います。欲しい例文が辞典になかった場合、インターネットに頼る ことも考えられますが、膨大な玉石混交の実例文の中から適切なものを探し出すのは大変な作業です。 基本語の基本的意味だけを集めた例文集のような辞典 が欲しい、 と思うのは私たちだけでしょうか。

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以上が、私たちが欲しいと思っている辞典の要点です。このような辞典があれば、 特別の「気根」の持ち主だけが合理的で確実な語彙習得法を実践できる、という憂うべき状況を改善することができます。学習者の「気根」は、 それぞれの専門の領域でこそ発揮されるべきだと思うのです。

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